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おばあちゃま、世界を翔ぶ
〜情熱とコンパッションの半生記〜

New York ビズ!にて連載中
Vol. 123

原爆の話(1)

最初の原子爆弾は2種類作られた
広島に落とされた「Little Boy」原爆第1号

広島に落とされた「Little Boy」原爆第1号

8月6日は原爆が落とされて75年になります。皆様にもう少し実情を知っていただきたく、お話しします。

私には幸運なことに、ジュリアナ・クリスティという親友がいます。彼女の夫、ロバート・クリスティは、ナチス・ドイツとの戦争に勝つために原爆を開発したマンハッタン・プロジェクトの重要な科学者の一人でした。

1933年1月、ヒトラーは首相に就任し、その3月には「全権委任法」が可決され、事実上の独裁者となりました。彼は、以来、ユダヤ人、ジプシー、そして彼が“劣っている人種”とみなした者への迫害を制度化しました。

同年10月、ドイツは国際連盟から脱退して、1934年8月に、ヒトラーは国家元首の権限を手に入れ、事実上ドイツの最高指導者になりました。

米国の原爆計画の動機

1938年、ユダヤ人の物理学者リーゼ・マイトナーはベルリンから亡命し、ストックホルムで研究中、ウランなどの重い原子核が2つ以上の原子核に分裂する「核分裂」を発見しました。そして、このニュースはアメリカにすぐ伝えられました。当初、原爆は何トンものウランを必要とするため、実用的ではないと考えられていました。

その頃アメリカに、ドイツで訓練を受けた優秀な科学者が多く集まりました。ナチスからの迫害で亡命せざるを得なかった人達で錚々(そうそう)たるメンバーでした。アルバート・アインシュタイン、レオ・シラード、ハンス・ベーテ、エドワード・テラーらです。オッペンハイマーをはじめとするこれらの多くのアメリカの物理学者は、皆ドイツのゲッティンゲン大学で修業を積んでいました。当時、この大学の物理研究は「世界の中心」で、この頃からここの科学者達は原子爆弾を作る可能性を信じていました。

これらの懸念は、アインシュタインとレオ・シラードが1939年8月2日にルーズベルト大統領に宛てた手紙に記されており、原爆の製造が可能になると警告しています。この手紙が、マンハッタン・プロジェクト設立の重要なきっかけとなり、ルーズベルト大統領は1941年10月9日に、この計画を承認しました。

マンハッタン・プロジェクト2種類の原爆

1941年末までには、アメリカの4つの大学で原子力に関するプロジェクトが行われていました。ドイツで訓練を受けたヨーロッパ人物理学者の多くが、そのままこのプロジェクトに従事していました。マンハッタン・プロジェクトの責任者レスリー・グローブスは、ロバート・オッペンハイマーを、原爆を作る秘密研究所のリーダーに選び、1942年11月、ニューメキシコ州のロスアラモスにこの研究所を作られました。

オッペンハイマーが率いるマンハッタン・プロジェクトには沢山の科学者がいました。ロバート・クリスティは、1943年初頭にオッペンハイマーからロスアラモスにある原爆研究所への入所を頼まれた最初の1人です。

原爆の最初のアイデアは、抽出が非常に困難で希少な「ウラン235」の使用を想定していました。以後「ウラン235」に中性子が当たると、核分裂が簡単に引き起こせることが分かり、そこで発生する熱エネルギーを核兵器に転用できることが分かったのです。その結果、原爆「Little Boy」が製造されました。

この原爆は1945年8月6日に広島に投下されるまで実験は行われませんでした。

1945年7月16日に、ニューメキシコ州のアラモゴードで、最初の原爆の実験が行われました。この原爆は、「クリスティ・ガジェット」と呼ばれ、ロバート・クリスティが開発しました。大変複雑な構造だったといいます。そして厳重な秘密裏に作られその頃はもちろん、「爆弾」という言葉はタブーでした。

アラモゴードの実験場で主要な科学者が集まり、世界最初の原子爆弾の実験が行われました。ロスアラモスからニューメキシコの実験場に爆弾をステーションワゴンで運んだというユーモラスなエピソードがあります。ロバート・クリスティは、プルトニウムを使用したこの爆弾の設計に大きく貢献しました。世界最初の原子爆弾の実験は成功しました。これが二つ目の原爆となります。

この「クリスティ・ガジェット」は「Fat Man」というニックネームがつけられて、同年8月9日に長崎に投下されました。こうして、第2次世界大戦に終止符が打たれたのです。感謝合掌。