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おばあちゃま、世界を翔ぶ
〜情熱とコンパッションの半生記〜

New York ビズ!にて連載中
Vol. 99

進駐軍の話(1)

終戦直後の私たちの生活

終戦直後の話です。
私にはひさこちゃんという妹がいましたが、戦争で食べ物が極端に少なくなり、栄養失調で7月7日に亡くなったのですが、薄い紫のきれいな桔梗の花がいっぱい咲いている季節で、私には生まれて初めて本当に悲しかった経験でした。桔梗の横で涙ってどうしてこんなに体の中にあるのだろうと思いました。不思議なことにそういうことは今でも美しい思い出として心の中に生きています。この花を見るたびに涙が出ます。
私にはその時5人の姉弟(ひさこちゃんを含めて)がいました。上の3人は戦争を体験しています。
家にはお手伝いが10人以上いました。

アメリカ人に邸宅没収

当時の日本での暮らしは、読者の皆さんには全く想像がつかないことばかりでしょう。私たちは宝塚の別荘に疎開していました。
戦争が終わって進駐軍がやってきて、アメリカ人に近所の快適な屋敷が次々に没収されました。この地域は大きな庭がついた別荘や邸宅のある地区だったので、全部取られてしまったのです。

叔母の交渉のお陰で我が家を没収されず

私たちの家が取られずに済んだのは叔母のお陰でした。叔母は、現在の津田塾大、当時の津田英学塾を卒業して、英語がべらべらだったので、宝塚からわざわざ大阪の進駐軍の本部に出向いて、「うちには二つの家族が住んでいて合わせて10人も子供がいる。だから没収しないでくれ」と説得してくれたのです。するとなんと、その一番偉い人が話を聞き、「日本食が大好きなんだけど、レストランなんか一つもないから面白くないんだ」と言ったのだそうです。
そりゃ、そうです。自分たちの爆撃で大阪は焼け野原で全て潰されてしまったのですから。この人はフランス料理にも詳しい食通だったのです。じっと叔母の話を聞いた後に、「日本食をご馳走してくれないか、それなら家を没収しない」と言われたそうです。

大佐に日本食をご馳走

それで私の家にその人を招き、日本食をご馳走することになりました。それでしたらうちでもできますからね。私の家には日本食を料理する料理人がいましたから。お魚を特別用意して焼き物、煮物、揚げ物、野菜は私たちの畑で新鮮なものが種類豊富に採れていました。

いよいよ当日、その偉い人が、ヘリコプターで護衛も付けないで1人でやってきました。父と母と叔母がお迎えして、蔵から最高のお皿や骨董品を出して、もてなし、女中さんが持ってきたのを一つずつ丁寧に出しました。お箸を上手に使ったのでびっくりしました。食べるのはそのゲスト1人でした。日本の古いしきたりではホストはゲストとお食事はしないのです。

こうやって和食をごちそうしたら凄く喜んでくれました。
そのあと、お庭を散歩するって言うのです。私の家には大きなお庭があって大きな池もありました。そこを通りかかったらガマガエルがギャーギャーないていて。それがどうやら彼は食用ガエルだと思ったのですね。それで「あれが食べたい」って言うので、食べたことがなかった私たちは驚きました。「フランス料理ではあれは特別で、グルメとして食べるものだから、アレが食べたいからもう1回来たい」って言うのです。

さてその偉い方は、とにかくカエルを食べるためにもう1回来ることになって、叔母がフランス料理のレシピ本を開いて、どうやって食用ガエルを料理するかを勉強しました。畑の使用人が大きなカエルを釣ってきて、頭を切って皮をむくのを私たちはじっと陰から見て、ぎゃあぎゃあ騒ぎ、なんでこんなものを食べるんだろうって全く信じられなかったです。

ついにその偉い方が2度目に来た時、私たち子供は、ほんとに食べるのかしらと障子の後ろに隠れてじっと覗いていました。そして、遂に口に入れると、あー食べた! 食べた!と言って騒いだのを覚えています。もしカエルが食べられるのだったら食糧難は防げたのにね。たくさんいましたから。私たちもちょっとだけお残りを頂いて生まれて初めてカエルが大変美味しいもんだと知りました。
(次回に続く)