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おばあちゃま、世界を翔ぶ
〜情熱とコンパッションの半生記〜

New York ビズ!にて連載中
Vol. 100

進駐軍の話(2)

戦後の私たちとアメリカ兵の占領の思い出

裕福な家庭で育ちました。中央が筆者

ご飯はないけれど、畑があったから、キャベツ、ホウレン草、お芋とかニンジンとかゴボウとかそういう物は自分のうちの敷地で採れました。アスパラガスなどのおしゃれな野菜は日本ではまだ知られていない物まで家の畑で採れました。そういう物も私たちは食べていました。

お米がなく食べられなかったご飯

本当にお米が全然ないから、ご飯は食べられなかったのです。お隣に朝鮮村があって、日本人のお米はみんな戦争に供出していたのですが、朝鮮村の方たちはお米を闇市で売っていました。終戦近くはもうお米はすごく高い値段で物々交換していて、母の宝石や帯や着物は全部お米に変わってしまったのです。私たちがお米を欲しているのを知って、さーっとお米を手ですくって見せたり、そんなことまで覚えています。その村の人たちは戦争が終わった途端に、今度はチョコレートとかガムとか歯磨き粉などを手に入れて、売りに来ました。ほとんど日本語が話せない人たちでしたが商売が凄く上手だったのを覚えています。

日本人にとってお米は宝物でご飯の真ん中に大きな梅干しを入れたのを兵隊さんたちは涙を流して食べたそうです。日本人にとってお米は只の食べ物ではないのです。古代から2600年以上も続いた伝統で天皇が毎年その年のお米を神様にお供えしてその年のお礼をいう、「新嘗祭」の儀式が今でもあります。

日の丸弁当

我が家ではたまにご飯のある時には合掌して次の歌を子供たちが歌ってから1粒も残さず頂きました。♪お国のお宝、美味しいご飯、しっかり噛んで頂きましょう。体も心も力に満ちて、元気な良い子になりましょう。♪

大阪で空襲があった時、全部大阪が焼け野原になって、親戚の人で脚が折れてなくなった人なんかも、その状態のままどんどん宝塚に逃げてきました。大きなトマトやサツマ芋等を涙を流して食べていました。私たち子供は近くの堤防にツクシを採りに行ったり、それから「いたどり」という山菜を採ってそれを炊いたり。甘酸っぱい味を覚えています。

ウィルキンソンという炭酸水の工場が近くにありました。そこには最高のミネラルウオーターが噴き出していたので私はよく弟たちとそこにお水を汲みに行かされました。他の栄養は足りなかったけれども、今の年でも皆、歯茎が強く良いのは、そのお水をずっと飲んでいたからでしょうか。かたつむりとかイナゴとか、フランスでは最高のご馳走なんだからと叔母が私たちに言って、そういうものだったら、食料がなくなった時もイナゴとかコオロギはポンポン道路に飛んでいたわけですから、かたつむりとかイナゴを取ってくるのは私たち子供の役割でした。雨が上がると、さあ行け!と言われて、かたつむりを「なんでこんなの食べるの?」なんて言いながら集めて、それを叔母が教えて、エスカルゴのように美味しく焼いてニンニクと塩とオイルで料理人が調理しました。イナゴは唐揚げでした。料理人が上手なので美味しかったです。

生活はとても質素で、私の弟、明は絵が描きたくて描きたくて、いつも「紙が欲しい、紙が欲しい」と泣いていました。でも彼は木の枠を作ってフレームに仕立て、その中に砂を入れて、木の棒で色々描いては消してまた描いては消していました。着る物はいつももんぺの作務衣でした。お腹はいつも空いていました

100回噛むと美味しい

今でもサツマ芋は大好きですが、その頃はおやつもサツマ芋か栗か柿でした。イチゴもありました。でも3時におやつがちゃんと出してもらえて、今から考えると大変有難いことでした。お昼ご飯はだいたい、炒った大豆を自分の年の数粒と一つ食べる、というのがルールでした。5歳だったから六つ食べます。それでもちゃんとお座りして100回噛むと美味しいのです。お粥は薄いお粥でしたが、ものすごく美味しかったのです。お芋が入っていて、おネギや緑の葉っぱが入れてあったりごまが入っていたりして、すごくいい匂いがしました。

今の時代は皆さん、口にいっぱいものを入れて、ちょっとしか噛まないで飲み込んでしまいますから、食べ物の本当の味をこんなふうに大事に味わうなんてことは、もう考えられないと思います。唾も使わないから消化も悪いのです。栄養を無駄にしています。
(次回に続く)