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おばあちゃま、世界を翔ぶ
〜情熱とコンパッションの半生記〜

New York ビズ!にて連載中
Vol. 101

進駐軍の話(3)

戦後の私たちとアメリカ兵の占領の思い出

幼稚園で少なくなった児童と。前列右から3人目が筆者

一口ずつよく噛んで

戦後の食べ物がない時代の経験は、もちろん大変ではありましたが、このお陰で私は食べる事の意味を体で知り、どんな素材でもゆっくり味わって食べたらとても美味しくまた栄養になるのだということも知ることができたのは、幸せなことだったなと思います。一口、口に入れたら、お箸を一度置いて、100回噛み終わるまで待つのですから。急いで食べている時とは全く違う味がするものですよ。

進駐軍の子供達との遊び

進駐軍が日本の邸宅を取り上げて、自分たちの家にしてしまった話をしましたが、私の近所の邸宅は英語が話せた叔母のお陰で助かった我が家以外、本当に全部没収されて、アメリカ人家族の住み家になってしまいました。
隣の家にも、新しくアメリカ人の家族が引っ越してきました。その家族には男の子のボビーとかわいい女の子のローリーという二人の子供がいて、二人とも私たちが見たことのない金髪で特にローリーの長い髪はそれは美しかったです。太陽の下できらきら輝いていました。進駐軍の子供たちは日本の子供とは遊んではいけないということになっていたらしいのですが、彼らはうちの垣根を下から潜って、毎日遊びに来ました。

庭の大きな木の下にいる筆者

終戦直後だったので、防空のために作ったかなり大きな丘と穴が庭にまだあって、それを山に見立ててインディアンごっこをしていました。この遊びはいつも同じ筋書きで、私たちきょうだいがインディアン役で、私たちがローリーをさらって、防空壕だとか、木の陰とか、どこかに隠すわけです。そうすると、ボビーが助けに来るっていう遊びでした。
うちの母が、子供たちに飲ませるために、ミルクが出るからと小さいヤギを宝塚動物園から買ってきていたのですが、それを馬ということにして、ボビーが馬に乗ったカウボーイのつもりでローリーを助けに来るわけです。それを毎日毎日遊びました。ちなみにそのヤギは私の家に来てから全くミルクが出なかったので餌をたくさん食べるとお手伝いさんたちは愚痴を言っていましたが、とても良い子供たちのお友達になっていました。

アメリカと日本の躾の違い

お互いの言葉が分からないのに、どうやってこういう役割分担をしたりルールを決めたのか、さっぱり理解できないのですが、そればっかり毎日やっていました。
晩ご飯の時間になると、隣のアメリカ人のお母さんが大声で呼んでるのがそこら中に聞こえます。そうすると2人はまた垣根を潜って帰っていくのですが、悪い事をすると子供たちがお尻をペンペンと叩かれていた様子を私たちは2階の窓から見て、アメリカの躾は厳しいんだなと思って見ていました。

私たちの躾は、まず起立して立たされて反省します。もっとひどいことをした時にはお蔵の中に放り込まれました。2人で入れられた時は遊べるから嬉しかったのですが。ある時1人で入れられてしまって、しかも忘れられて、私は1人で高い窓から見える美しい月を眺めて泣いていました。夕食の時に子供が1人足りないと慌てて迎えに来てくれました。

進駐軍の大佐は沢山のお土産を持ってきました。チョコレートとかチューインガムとかキャンディーをいっぱい持ってきましたが、しきたりのある我が家は子供たちは1人ずつお行儀よく並んで、起立して、種類ごとに一つずつしか取らないで、「頂戴」とたかるのはもっての他で、御礼も、1回丁寧に言えばそれでオーケー。2回以上「サンキュー」を言うのは下品でいじましいと叔母に教えられました。見たこともないお菓子を喉から手が出るほど沢山欲しかったけれど、頭を撫でてもらって終わりました。日本人としての誇りをもって、礼儀を教えてくれた叔母は素晴らしかったなと思います。

隣のお父さんの出勤は、朝晩ヘリコプターでした。子供たちは今はいったいどうしていることでしょうね。同じくらいの年だったので、きっともう80代くらいでしょうか。